4月13日「決闘の日」について詳しく解説していきます。
4月13日「決闘の日」の概要
4月13日「決闘の日」は、1612年(慶長17年)4月13日に、「宮本武蔵」と「佐々木小次郎」が、「巌流島」という場所で決闘したことに因んで制定された記念日です。
宮本武蔵は武芸の達人として知られ、佐々木小次郎は細川家に仕える剣の指南役でした。
急に人気の出た剣豪武蔵に対して、今まで誰にも負けたことのない小次郎はライバル意識を燃やし、決闘を申し込みます。
単にチャンピオン決定戦ならば木刀で戦えば良いのに、当時はいきなり真剣勝負で決闘していたのです。
決闘の場所は豊前小倉沖にある「船島」という島ですが、小次郎の剣術の流派が「巌流」であったことから、「巌流島」と呼ばれる様になりました。
「巌流島」は源平合戦でも有名な壇ノ浦沖にあり、現在では海上公園になっていて、観光船で上陸できます。
さて、決闘の当日、武蔵は約束の時刻に2時間も遅れてきたと言われています。
待つのに疲れて苛立っていた小次郎の元に、武蔵はなんと小舟に乗ってやってきたのです。
小次郎が苛立ちと焦りから刀を抜き、鞘を海中に投げ捨てた時に、武蔵は「小次郎、破れたり」と言い放ったのです。
これは、「勝つつもりがあるのならば、鞘を投げ捨てるはずがない」という理由からでしたが、これを聞いた小次郎は益々怒り、一気に勝負に出ます。
しかし武蔵は刀を使わず、持っていた木の櫂(かい)で小次郎の額を打ち、あっという間に勝利を収めました。
武蔵の小次郎を煽る心理作戦が見事に成功して、小次郎に打ち勝ったのです。
宮本武蔵と佐々木小次郎の物語は、多くの作家により描かれ、映画やテレビドラマにもなっています。
また、その人気の高さから子供の名前に付けられたり、マンガやアニメのキャラとして使われることも多いのです。
4月13日「決闘の日」のイベント
4月13日「決闘の日」には、福岡県北九州市の手向山公園(たむけやまこうえん)周辺で、毎年「武蔵・小次郎まつり」が開催されています。
手向山公園は、巌流島を見下ろして広がる自然公園で、「宮本武蔵の碑」と「佐々木小次郎の碑」が設置されています。
毎年4月の第2日曜日に「武蔵・小次郎まつり」が行われ、奉納の為の演武や決闘シーンの再現、そして小中学生による剣道大会などが行われています。
他にも野点(のだて)の茶会や演芸会などが催され、屋台なども出るので、大人から子供まで楽しめるイベントです。
宮本武蔵や佐々木小次郎のファンは全国に多く、毎年観光客でにぎわっています。
ただし、2020年以降コロナウィルスの影響で、規模を縮小したり、中心になることもあるので、興味のある人は必ず確認をしてから足を運びましょう。
「決闘の日」の豆知識
「決闘の日」に因んで豆知識を紹介します。
1つ目は、「佐々木小次郎はおじいさんだった」という説です。
映画でもドラマでも、佐々木小次郎と言えば「髪を後ろで縛り、背中に刀を一本ざししている美青年」、一方宮本武蔵は「ワイルドな青年」というイメージがあります。
そして巌流島にある銅像でも、佐々木小次郎は美青年に作られています。
しかし、このイメージは文豪「吉川英治」の小説「宮本武蔵」での表現や、歌舞伎の影響によるものです。
実際に巌流島で決闘した時に、2人の間にはかなり年齢差があったと言われています。
特に佐々木小次郎は小倉藩の剣の指南役をしていたキャリアの持主で、それまで無敗であったということから、青年ではないという説が有効です。
資料などから推定して、当時宮本武蔵は19~29歳前後、佐々木小次郎は60歳前後であったと言われているのです。
2つ目は、「武蔵は小次郎を殺していなかった」という説です。
実は巌流島の決闘で武蔵は小次郎を殺しておらず、木の櫂で打って気絶させただけとも言われています。
武蔵が去った後で小次郎は意識を取り戻しましたが、そこで様子を見ていた武蔵の弟子達によって殺されたというのです。
二人きりの「決闘」のはずが、弟子を連れてきたとしたら、武蔵は卑怯者と言われても仕方ありません。
4月13日「決闘の日」に考えたいこと
4月13日「決闘の日」に考えたいことは、「武蔵と小次郎の決闘で、小次郎が死ぬ必要があったのか」という点です。
当時はどちらが強いか決めるには真剣勝負するのが当然でしたが、現在では競技会などが開かれて、正式なルールのもとに勝者が決められる様になっています。
平和に、正々堂々と決着を付けられる世の中になって良かったと思える日にしましょう。
まとめ
4月13日「決闘の日」は、1612年に宮本武蔵と佐々木小次郎が、巌流島で決闘したことに因んで制定された記念日です。
この2人の剣豪は今でも人気が高く、有名な小説やマンガなどが発刊されているので、じっくりと読み味わう日にしてはいかがでしょうか。